こうして、市を相手にして住民訴訟を提起することになります。
裁判は相手方が応じて争わねばなりません。
主張をしなければ原告の言い分がどんなに勝手なものでも通ってしまいます。
では住民訴訟の場合はどうでしょうか。
市側も同じように主張をしなければなりません。
住民訴訟を起こされると、よほどの政治的判断があった場合は別として、市は自動的に被告として原告と反対の立場を取ります。
これは「原則」としては「何が正しいか判断するための反論」になります。
住民は市政のために訴訟を提起し、それに応じる自治体もまた市政のために反論しなければなりません。
市が「市長を守るため」などと、ひたすら市民の訴えに反論したり、やみくもに原告に反論すればよいというものではありません。
しかし、このあたりは現実にも誤解されているケースが多いように思います。
行政という実務のことを考えてください。
いちいち住民訴訟を起こされたり求められるままに、「わかりました」といちいち裁判や請求を起こしていたらどうでしょう。
負けたり勝ったり、それが本当に必要なことなのか判然としないまま争いをすることになってしまいます。
こうしたことは政治的に濫用される可能性もあります。
本当にその請求が妥当であるか法的にも確かめねばなりません。
だから、住民訴訟の趣旨が法に照らして正しいかどうか、裁判所で判示してもらおう、そのために原告の主張に反論してみて、それでも原告の訴えが正しいとされたら市長に請求を行なうということになります。
住民と自治体は何かの利害を巡って対立しているわけではありません。
住民は市長によって毀損された自治体の財産を取り戻そうと代弁しているのです。
この意味で、市側と住民側の互いが協力して法廷で被告と原告の立場に立ち、立証と反論によって真実を明らかにしてゆこうというのが住民訴訟の原則なのです。
そのために、ある種のディベートのようなことにはなります。
住民訴訟に対しては市は反対の立場を取り、これこれこうだから市長にそこまでの請求はできないのではないか、などと反論することになるのです。
これが政治的に偏ってもいず、自治体がきちんと機能している場合です。
ただ、どうしても政治家の保身やことなかれ主義や委任した市側の弁護人の勘違いから、とにかく「生意気な住人の訴えはなんとしても否定しなければならない」などと詭弁的な反論が弁護士によって行なわれてしまうようです。
「勝ち負けのゲーム」をしているだけの弁護士としてみればごく普通のことなのですが、訴えた住民からすれば、まるで腐敗した市が住民の意見を圧殺しているように見える、市長の過ちを誤魔化そうとしているように見えることがあります。
それは誤りです。