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改 四号請求訴訟のブログ

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訴訟に至る最初の発端




 さて、本件住民訴訟とは直接は関係がないお話になりますが、この訴訟を二年前に提起することになった直接のきっかけについて少しお話をしようと思います。



 本件住民訴訟の提起をしたのは、もちろん直接には「他力本願はよくない」というようなご批判があったこともありますし、誰もしないなら自分がやらねばという使命感もありました。





 しかし、直接の最初の発端は、あるひとつのニュースからでした。


 それは国分寺市のお隣、東京は国立市で起きた事件でした。

 その元市長上原氏は違法な執行を行い、国立市は事業者に賠償金を支払うことになりました。そしてその「市が代位して払った賠償金」について住民から四号請求を起こされ、結果として求償されその支払いを弁済させられたことになった事件でした。

 私にはまるで同じ構図のように思えました。



 この「国立マンション訴訟」と市長への求償事件のあらましについてはネットの検索で他の記事におまかせするとします。

 その後のことになりますが、この元市長が自分で弁済に応じることもなく、募金でこれをまかなったという、政治家としてあまりの不誠実さと無責任もありました。よくも悪くも大いに注目されるニュースだったのです。




 ともかく、政治が責任を取るものだということ、その言葉は飾りではなく、日本の法治主義がまだ機能していることを知ったのはこれがキッカケでした。


 そして私は求償権というもの、「市の財産管理を怠る事実」というもの、住民訴訟で市民の受けた損害を取り戻すことが出来るということを知ったのです。



 そして調べてみると、国分寺市で起きた事件はこれよりずっと単純で、暴力的で、身勝手で、とても行政の執行長とは思えない執行であったことを知りました。



 そして、私がまずやったことは、星野前市長に直接お手紙を書いたことでした。



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本件住民訴訟について


 訴訟資料というものは誰でも原則として見ることができますから、本件訴訟の細かな部分について多くを割く必要はあまり感じられません。
 また、事件自体もごく単純で分かりやすいものです。


 私は原告として、被告の詭弁やまやかし、嘘、すり替えについて全てに言及し、否定とその立証をしてきました。
 それは触れなければ認められるおそれがあり、ただ単純に「こんなものは違法に決まっていて市長に求償するのは当然のことだ」などとはできないからです。
 結果としては判決はごく当然のような判決でしたが、全力でやる必要がありました。

 ただその中には詭弁に対しての反証でしかないものもあったりするからです。





 このブログではいきさつをかいつまんでまとめてはいますし、報道によりだいたいのところは掴めると思いますが、裁判というものは公開が原則ですから、もし詳細を知りたい方はすべての主張と証拠を読むことが出来ます。

 国分寺市にもこの訴訟関連文書として「情報開示請求」をすれば正式に公開され、これまでのいきさつのすべてを読むことができます。



 繰り返しになるようですが、今回の判決を踏まえて改めてざっとまとめてしまえば、本件はごく当たり前の司法判断であり判決でした。


 「星野前市長が図書館とそれに絡む風営法の規制を利用して、個人の財産権と営業の自由を侵害し損害賠償を国分寺市がこれに代位して支払いをした。このため国分寺市は前市長星野に求償権を有しており、これを請求しないでいることは市の財産管理を怠る違法である。」


本ブログについて


 このブログにとっても、無事に「勝訴判決」という結果を得ることができました。
 



 どうかこのブログもよく隅々までお読みくださり、四号請求についての理解を深めていただければと心から願っています。
 ネットを見ればこのような四号請求、住民訴訟というのはいくらでもあります。
 地方主権の時代であればこそ、こうした市民からの異議申し立ては必要なのだと思います。


 ただどうしても四号請求は弁護士ですらなかなか理解しにくい部分があります。僭越ながらこのブログも、その理解の一助、議論の端緒となればと思います。



 私は法律の専門家ではありませんから、逆に私の考えるような四号請求の趣旨、その捉え方というのは実は実務家である弁護士からすれば「余計なこと」とされてしまうことも多いものです。

 実務からすれば、勝つか負けるかが弁護士の職務の世界なのです。



 しかし私は市民として、この四号請求の趣旨というものを通じ、市政や行政のコンプライアンスを考えることができるのではないかと思うのです。


 なぜわざわざ法は住民訴訟をさせるのか、なぜ市はこれに反対抗弁をするのか、どうして住民監査請求をすることが住民訴訟の前置条件となるのか。



 私はこの四号請求の本質について、「市がどうすべきかが正しいことなのか」を探る、市と住民の共同作業なのだと理解しています。

 だからこそ、住民訴訟で抗弁と否認に回っていた市が負けて、いざ前市長に請求するとなれば、その行政は住民が主張していた立場から前市長へ請求を行なう。

 だからそのことは、決して「手の平返し」ではないし、そこに「矛盾」はないのだと思うのです。



 この国は法治国家なのです。



 こうして、本ブログも微力ながら議論のキッカケにもなり、今後の日本の地方自治を確かなものにしてゆく、その前進に少しでも貢献できればと願っています。

判決トピック 被告弁護士の最判引用のこと(詳細)


 被告側弁護士は最高裁判例を引き合いに出し、「これまで星野前市長に請求して来なかったことは証拠を入手できなかったからであり、そのような証拠は見当らないのだから前市長に請求しないことは正当なことである」との主張をしました。

 これに対し、原告が被告の主張に対して指摘した部分を抜き出しました。
 (《註》としたところです。)
 これは訴訟での準備書面からそのまま引用しています。
 分かりやすくなるよう改行だけを加えています。



>(略)・・・少なくとも客観的に見て当該債権の成立を認定するに足りる証拠資料を入手し、又は入手し得たことを要する、と解されている。
 
《註》 原告は、星野が議会に働きかけて本件条例を可決成立させ、図書館設置ができるようにして図書館の設置を実態的に行い、係る風営法の法規制を利用して本件パチンコ店の出店の阻止をした「実行の主体」であることを示してきた。これにより補助参加人星野への求償権の存在は客観的に見ても明らかである。
 星野に「国分寺駅北口再開発事業が頓挫する危機感があった」などという主張は、前市長星野の言い逃れでしかなく、その危機感があったことを裏付ける当時の影響評価調査の存否、星野の東奔西走の活動や交渉、事業者らと直接折衝したという事実はどこにもないのだから、そのような主張は成立しない。(甲46号)
 このような、事実として「ない」ものを被告が「ある」と判断していたことは誤りであり、市は客観的に当該債権の成立を否定させる証拠資料を入手できていなかったのだから前市長星野へ求償を即座にすべきだった。これは本訴の主張においても同じ趣旨である。
 
 前市長星野の違法行為は、XXXXの出店を阻止しXXXXの不動産賃貸事業を妨害したという結果についてであり、市はこの損害賠償を星野に代位して支払った。これほどの明白な故意または重大な過失に求償がされなくては、地方行政が成り立つものではない。
 本訴において原告は充分な証拠に基づいて主張と事実を明らかにしているのだから、この立証をもって被告国分寺市は、当該債権の成立を認めるための充分な証拠を入手したとすべきなのである。
 
 なお、被告が引用した当該最高裁判断(H21.4.28)は以下のものである。(平成20(行ヒ)97)
当該判決は、 
 「>(略)・・・不法行為に基づく損害賠償請求権の不行使を正当とするような事情が存在することについて首肯すべき説示をすることなく、同請求権の不行使が違法な怠る事実に当らないとした原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。」としている。
 
 つまり、「充分な証拠がないからゴミ施設事業者に談合損害の賠償請求はしない」などとした尼崎市長に対し、その証拠は市が容易に入手することが可能であり、またもし市がゴミ施設事業者への求償権を否定するというならその求償権を否定する証拠を示すべき義務は被告尼崎市側にあるとして差戻した判決と解される。




 原告の指摘は以上でした。

 ここで、被告が引用していた最高裁判例は、「談合事件」という、より難しく複雑な事件についてではありましたが、誰に立証責任があるかを示したものとして注目できるものがありました。

 だから、この最判を引いた被告側弁護士の主張を見て、私は、とにかく原告住民の訴えをしりぞけたいあまりに、逆に被告弁護士としてはヤブヘビの引用をしてしまったのではないかと思えたものです。



 ここはまさに、戦いで相手が失点をした瞬間、オウンゴールを見た瞬間だったように思います。
 きっと職業としての弁護士であるなら、ここを「面白い」と感じたことだろうと私は思っています。彼らにとっては訴訟は勝つか負けるかのゲームなのですから。


判決トピック、立証責任


 今回の住民訴訟では注目される多くのことがあったと私は思っています。

 私としては星野前市長の違法行為の動機の解明と、これまで見過ごされてきた「市長部局による文書の改ざん」を発見できたことが大きなものでした。
 これにより、「星野前市長が違法行為に及んだ動機」と「議会がこれに応じて条例を成立させたキッカケ」について説明がつきましたし、市長の専決処分濫用に対する惧れということと相俟って、事件について一定の解明できたと思っています。

 しかし、これは判決としては直接取り沙汰されることはありませんでした。


 「訴訟とはそういうものだ」と言ってしまえばそうなのです。






 しかし一方で、今回の判決にも注目される点がありました。

 「すでに市は損害賠償金を支払った時点で星野前市長に求償権があることを知り得たはずである」という判示があったことです。

 
 被告の市側弁護人が展開した主張に対するものなのですが、この部分への言及はまさに四号請求の原理そのものであったと私には思えます。

 被告は次のような主張をしています。
 それは、
「市は確たる証拠を入手できなかったのだから、被告である国分寺市は財産管理を怠っていない」という趣旨の主張でした。



 これに対して判決は、「すでにパチンコ事業者に賠償させられた段階で求償権の発生を知り得ていたはずである」として、これを否定しています。



 これは考えてみればその通りで、賠償金を支払っておきながら、その違法行為の原因が分からない、議会だか市長がやったのか判然としない、なぜ賠償金を払うことになったかよくわからない、しかし市のお金は出ていきその理由はわからない、そんなことはあり得ないことないのです。

 「誰がやったのか分からないのに被害だけがあり、その認定と支払いはされている」
 そんなことはあり得ません。



 そして私からすれば、加えて「今こうして住民訴訟で争っているうちにも求償権が存在し、財産管理を怠っていることを知り得る材料となっているではないか」とも主張したい部分ではありました。




 つまり、「市には前市長への求償権がない」などという主張をするというなら、市にはその立証責任が強くあるのだということです。
 そしてそれは、「求償権があるとは必ずしも言えない」などという曖昧な主張では済まないということです。
 「これこれの理由で求償権は存在しないのだ」と、被告となった市が明確に立証すべきなのです。
 被告代理人弁護士はそれをほとんどしませんでした。


 なにより、住民などより行政当局である市はそれを容易に調べることが出来るのです。
 被告が引用した最高裁判例は、そもそもそれを判示したものであると私は指摘したのでした。


前市長の弁済金額は巨額か


 一部報道には4億5千万円を星野前市長に弁済させるということで、「巨額」という書き方が見られました。

 金額はこれに支払いを怠ってきた金利がかかり、6億以上が請求されることになります。

 平成26年から起算して複利で6億4千万円になると思います。


 確かに前市長への請求は巨額かもしれません。
 しかし、もしこれを巨額とするなら、今までこの巨額の市民の財産について、弁済がまったくされずに放置されてきたこと、市民にとっての損害もまた莫大な損害だったということになります。



 国分寺市民はよく知らされることもなくこれを負担させられてきたのです。




 判決では「求償権があるにも関わらずこの請求を怠ってきたことは違法である」としています。


 当時の議会の議員らでこれに言及した議員はわずかでした。


 市長という絶大な権力には大きな責任が伴います。

 コンプライアンスが地方自治にとっていかに大事か、行政は市民の財産と生命を預かっているという自覚を持つべきだと切に感じるところです。

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